PROJECT STORY

Driving the Edge

"Challenge to the sky"

空への挑戦

自由な移動の喜びを、空にまで届けたい。

A00

「ビジネスジェット機の日常化」で、
人々の生活をより楽しく、より豊かに。
すべての人に“生活の可能性が拡がる喜び”を提供する。

STAFF

藤野 道格

MICHIMASA FUJINO

Honda Aircraft Company社長兼CEO
本田技研工業(株)常務執行役員
工学部 航空学科 卒業
◎1984年に本田技研工業(株)に入社。
◎1986年より航空機の研究開発に携わる。
◎2006年より現職(HACI社長兼CEO)。

STORY

クルマやバイクそして船外機など、さまざまな製品を製造している Honda 。陸や海のほかに空を自由に移動できるモビリティの提供は、創業当初からの夢だった。1984年に本田技研工業に入社しその夢を現実にしたのが、現ホンダ エアクラフト カンパニー社長の藤野道格だ。創業から30年以上を経た1986年、 Honda はついに航空機の研究に着手した。コンパクトで軽い機体でありながらも、燃費が優れ十分な広さと優れた乗り心地がある小型ビジネスジェット。そんな航空機があれば、移動コストと環境負荷を低減し快適性と利便性を高められると考え、航空機設計の常識を見直すことから始めて、ビジネスジェット機では世界初となる独自開発の主翼上面エンジン配置などを実現。最大巡航速度422ノット、最大運用高度43,000フィート、航続距離2,661kmなど、クラス最高性能を誇る小型ビジネスジェット機が完成した。

人生を豊かにする飛行機を。

SCENE01

1986年、入社3年目の藤野は、アメリカで忘れられない体験をした。米国で開催されたビジネスジェットのショーを見学したときのことだった。ピカピカに磨き上げられた美しいジェット機がずらりと並び、それらを買うために世界各国から人々が集う華やかな世界に、藤野は度胆を抜かれた。同時に、「いつしか自分の設計した飛行機をそのようなショーで展示して売ることができたらどんなに素晴らしいだろう」と強く思った。人々の人生をより楽しく、より豊かに変えられるような飛行機を創って、それらが Honda の飛行機として世界中の空港に置かれているのをこの目で見たい。藤野の壮大な目標が生まれた瞬間だった。

大きな夢には、立ちはだかるハードルも高い。決して順風満帆とは言えない道のりが続いた。幾度となくプロジェクト終了や事業撤退の危機などの逆境に見舞われた。人生を豊かにする飛行機を創りたいという藤野のまっすぐな想いに変わりはなかったが、さすがにモチベーションが続かなくなる時期もあった。自分の掲げた目標があまりに遠くに感じ、自分が前進しているのかどうかすらわからなくなってしまう。「自分なりに、一歩ずつ前進していることを確かめながら進もう」。藤野は、目に見えるような細かいマイルストーンを設けて、一つひとつ前に進めていくことにした。週に一度、必ずレポートを作成して定例会で発表することを決めた。プロジェクトには解決すべき課題が山のようにある。そうした中から毎週課題となるテーマを一つ決めて、自分なりに結論を出す。だいたい10~20ページ程度のレポートを、一週間に一つ仕上げる。先週の自分より今週の自分は夢に一歩近づいているんだと考えるようにした。藤野は、これを10年間続けた。レポートをまとめたファイルは、30~40冊に及んだ。

逆境を、諦めない。

SCENE02

HondaJet にはあまりにも斬新で、一見して「実現可能」とは思えないようなアイデアも採用されている。特に、主翼の上にエンジンを配置するというアイデアは前例がなかったため「絶対に無理だ」という声が大きかった。市場調査で否定的な意見を述べた人の割合は、75%にも上った。藤野は、十分に検討を重ね、シミュレーションや試験を繰り返し、技術的な確信を得るために奔走した。しかし、技術的な確証にたどり着いても、周囲の理解を得ることは難しかった。どうしたらこのギャップを埋められるんだろう。周囲の理解を得るためには、どうしたらいいんだろう。

藤野は主翼の上へのエンジン配置に肯定的な意見を述べていた残りの25%の人々の声に耳を傾けた。そして、彼らの意見の中に一筋の光を見つけた。「初めて飛行機をつくる Honda の飛行機だったら荒唐無稽だと思われてしまうかもしれないけれど、すでに実績のある会社がつくった飛行機であれば『画期的な飛行機だ』と評価されるのではないか」。これが重要なヒントとなった。

Honda に飛行機製造の実績がないことは、仕方がない。けれど、それに代わる信用や信頼を獲得することはできるはずだ―――。藤野はそう考えて、エンジンの主翼上面配置についての論文を書いてアメリカの航空宇宙学会に提出することにした。信用がないなら、自らつくればいい。藤野は、祈るような想いで結果を待った。通常、論文の審査期間は一年ほどと言われている。しかし、わずか3週間ほどで審査員からのレスポンスがあった。「航空機設計上、非常に重要な発見である」。藤野の論文が、認められたのだ。権威ある学会のお墨付きを得たことは、プロジェクトにとって大きな推進力となった。一つの波を乗り越えた瞬間だった。

ついに、世界の空へ。

SCENE03

藤野の周りには、信頼できる仲間がいた。一人だけができると思っていても、仲間がいなければ夢は実現できないと知っていた藤野は、協力者を得る努力も怠らなかった。とはいっても、全員のコンセンサスを得るために多くの時間を費やすわけにはいかない。世界最先端のチャレンジをしているんだから、当然反対意見や疑問を持つ人も出てくるだろう。でもそういうメンバーにも協力してもらわないとこの巨大プロジェクトは進まない。そのために藤野は、リーダーとして常にプロジェクト全体の内容をすべて把握することに努めた。これから依頼しようとしている人にどれだけの能力があるのか? どれだけの負荷になるのか? その人にとってどんな成長に繋がるのか? 適性はどうか? そうやってメンバーの適性や能力や状況に応じて適切な仕事をアサインしていく。すると、当初は疑問を持っていたメンバーも、藤野の意見に耳を傾けてくれるようになった。そんな努力が実を結んで、藤野の夢に協力する仲間は少しずつ増えていった。

1997年の研究スタートから18年。ついに HondaJet は量産体制を整え、米国連邦航空局より型式証明を取得した。2015年4月には、全行程が4万8,000kmを超えるワールドツアーを開始。最初に行われた日本ツアーでは、6ヵ所の空港でデモンストレーションフライトが実施され、のべ1万人以上の来場者が HondaJet を間近で見学した。日本に続き初飛来した欧州では、スイスのジュネーブで開催された欧州最大のビジネス航空ショーである EBACE 2015での実機公開を皮切りに、ポーランド、英国、ドイツおよびスイス等の9都市で試乗会を開催し、デモンストレーションフライトを行った。入社3年目に藤野が描いた夢が、現実になったのだ。

その後 HondaJet は販売地域を拡大し、北米、欧州、中南米、東南アジア、中国、インド、中東、および日本で販売されている。小型ビジネスジェット機カテゴリーで最高水準を誇る最大速度や最大運用高度、上昇性能、燃費、航続距離、室内空間サイズだけでなく、快適性や使い勝手、デザインの美しさにもこだわった HondaJet は2017年、同カテゴリーのビジネスジェット機のデリバリー数で世界 No.1 となった。また、2018年12月には最新型である HondaJetElite について日本の型式証明を取得し、日本のお客様への引き渡しも開始された。

藤野自身は HondaJet の研究、開発、多数の特許発明、および事業化によって、 AIAA (アメリカ航空宇宙学会)による『エアクラフトデザインアワード(航空機設計賞)』や ICAS (国際航空科学会議)による『航空工学イノベーション賞』、米国の学術団体 SAE インターナショナルによる『ケリージョンソン賞』といった航空業界において最も権威ある賞を日本人として初めて受賞するなど、多くの賞を受賞している。

飛行機をもっと、身近な存在に。

SCENE04

思えば、藤野は小さいころから新しいものをつくったり、考えるのが大好きだった。小学校の文集に書いた将来の夢は「設計技師」になることだった。一日中設計をしてものをつくっていられたら、どんなに幸せだろうと思っていた。しかし実際にプロになってみると、楽しいことばかりではない。 HondaJet の成功の裏側には、数々の困難と戦いの歴史があった。それでも時折ふと、心躍る瞬間が訪れる。画期的なアイデアが浮かんで「これだ!」「みんなびっくりするぞ!」と思う、あのエキサイティングな一瞬。それが、苦難の日々を乗り越える原動力になる。だから、ものづくりは止められない。そして藤野の眼は、すでに次の目標を見据えている。 HondaJet を「みんなのもの」にしていくこと。今は誰にでも購入できる製品ではないかも知れないけれど、将来的にはより多くの人々の生活に関わるものにしていきたい。日常の中に Honda のジェット機がある。そんな「ジェット機の日常化」は、決して遠い未来ではないのかもしれない。

※取材内容、および登場する社員の所属は取材当時のものです。

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